萩原朔太郎論 「家郷幻想」


萩原朔太郎は、その作品によって随分印象が違う。
「月に吠える」「青猫」の口語自由詩にみられる病的なまでのイメージの繊細さ。
ボードレールのような都会や群衆を歌った詩。
「氷島」の激しい文語調による漂泊者の悲痛な詩。
小説「猫町」のような幻想とユーモア。
ニーチェを連想させるアフォリズム。
徹底した二元論に捕らわれた(あるいは引き裂かれた)詩論や文明論。
音楽や写真、映画など当時のモダンな趣味に関するエッセイ、などなど。

 だから朔太郎論のテーマは、論者の好みによって、口語自由詩時代の詩語やイメージだけを重視したものや
「氷島」と日本近代についてだけ論じたものとに分かれる傾向がある。
それら作風の違う作品を時間軸によって繋げたかった。
それは、取りも直さず朔太郎の生きた時代を考えることでもあり、
当然それに繋がる私たちの生きる時代、今を考えることにもなった。
土田 和夫(ねこギター)


萩原朔太郎論
「家郷幻想」

はじめに


(1)テーマ

 萩原朔太郎の作品を読んで、まず気付くのは、彼の故郷に対する愛憎である。
 故郷に対するこだわりは、多くの文学者に見られるものと思うが、朔太郎のそれは彼の生涯と作品に色濃く影響している。彼の友人でもあった室生犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思うもの」と共通するものであり、文部省唱歌の「ふるさと」や歌謡曲(演歌)に歌われる望郷歌が代表するような一般の故郷感とはだいぶ異なっている。
 朔太郎の故郷への愛憎という相反する矛盾した感情が彼の作品にどのように影響をし、また何故そのような感情を持たなければならなかったのか、この二点をテーマにして、彼の生涯と作品を追ってみたい。


(2)方法

 朔太郎は詩人であるが、アフォリズム、評論、小説、エッセイ等も数多く書いており(特に晩年期)、それらも軽視せず扱っていく。しかし論を進める前に、便宜上詩を中心に四つの時期に分けてみたい。

 第一期は、朔太郎が東京に移住する以前、まだ前橋にいて創作していた時期とする。
 詩集でいえば、第一詩集『月に吠える』(大正六年二月刊)、第二詩集『青猫』(大正十二年一月刊)、第三詩集『蝶に夢む』(大正十二年七月刊)の三つの詩集の時期。これらの詩集に収録された作品は、大正三年から大正十二年に渡るもので、朔太郎二十九歳から三十八歳にかけての十年間に発表された作品である。アフォリズムとしては『新しき欲情』(大正十一年四月刊)の全作品と『虚妄の正義』(昭和四年十月刊)の一部の作品である。この時期の作品には、「田舎」と「都会」という対立項によって朔太郎の故郷感が表現される。

 第二期は、大正十二年二月の東京移住以後で、第四詩集『純情小曲集』(大正十四年八月刊)と第五詩集『萩原朔太郎詩集』(昭和三年三月刊)収録の「青猫以後」の作品とする。
 なお『純情小曲集』は、「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」とで編まれているが、「愛憐詩篇」の方は、『月に吠える』以前の作である。だが、ここでわざわざ「郷土望景詩」と併せて出したのには、それなりの意図があったからであり、その意図を重視してここで扱うことにする。「郷土望景詩」は、大正十年頃から大正十五年前半にかけて、「青猫以後」は、大正十二年から昭和二年にかけて発表されたもので、朔太郎三十八歳から四十二歳の作である。この時期の作品は、出郷の感慨と東京での新しい生活から生まれた作品がある。

 第三期は、第六詩集『氷島』(昭和十年六月刊)収録作品を発表し刊行するまでの時期で、大正十五(昭和元)年から昭和十年あたりまでとする。
 『氷島』の作品は、大正十五年四月から昭和八年六月にかけて発表した。朔太郎四十一歳から四十八歳の時。この間には、『詩の原理』(昭和三年十二月刊)や『恋愛名歌集』(昭和六年五月刊)等を刊行しているが、実生活の上では苦難の時期だった。東京生活の苦労、稲子との離婚で二児を伴い帰郷、父密蔵の死去等、朔太郎にとって現実生活に翻弄された。それらの事件は、朔太郎の精神状態に大きく影響した。

 第四期は、『氷島』以後ということになる。
 朔太郎は、父密蔵の死後、再び東京へ移住している。これ以後の朔太郎は、数編の散文詩を除いて、ほとんど詩を書かなくなってしまう。その代わりアフォリズム、随筆、小説、詩論、歌論、文明批評等のエッセイを数多く発表した。そして昭和十三年三月刊の『日本への回帰』等が示すように「日本的なるもの」「伝統的なるもの」に関心を深めた。

 以上四つの時期をそれぞれの章に分けて論を進めていきたい。


萩原朔太郎論
「家郷幻想」

第一章 田舎と都会


(1)田舎への嫌悪

  第一章は、「はじめに」で述べたように東京移住(大正十二年二月)以前の詩作品を中心にみていく。
  この時期は、朔太郎の故郷観が田舎と都会という対立項で表現される。すなわち郷土前橋を田舎として嫌悪すること、都会である東京へ憧れることである。 まずは、田舎への嫌悪から見ていくことにする。次の詩は『月に吠える』収録の「田舎を恐る」という作品だが、田舎への嫌悪が最も強烈に表現されている。

  
  わたしは田舎をおそれる、
  田舎の人気のない水田の中にふるへて、
  ほそながくのびる苗の列をおそれる。
  くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
  田舎のあぜみちに座っていると、
  おほなみのような土壌の重みが、わたしの心をくらくする、
  土壌のくさったにほひが私の皮膚をくろづませる、
  冬枯れのさびしい自然が私の生活をくるしくする。

  田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
  田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
  わたしはときどき田舎を思ふと、
  きめのあらい動物の皮膚のにほいに悩まされる。
  わたしは田舎をおそれる、
  田舎は情熱の青じろい夢である。

 この他にも田舎への嫌悪は、『月に吠える』の「孤独」「さびしい人格」、『青猫』の「厭らしい景物」「白い牡鶏」、『蝶を夢む』の「まづしい展望」「農夫」に見ることが出来る。アフォリズムの方では、『新しき欲情』の「田園居住者から」「荒寥たる地方での会話」、『虚妄の正義』の「田舎と都会」等がある。また少し時期はずれるが、東京移住まもない頃、郷土前橋と田舎に関する文章をいくつも発表している。「或る詩人の生活記録」「田舎に帰りて」「秋日漫談 私の郷土」「田舎居住者から」「田舎から都会へ」等がある。
 はたして朔太郎の郷土前橋は、このような「田舎」であったのだろうか。朔太郎自身は、東京移住直後のエッセイ「或る詩人の生活記録」に次のように書いている。


上州の小都会、M市という所で私は生まれ、長い年月の間、孤独にさびしく暮らしてきた。何物も、私の求めるものはそこには無かった。退屈な、刺激のない、単調な田舎の生活が、日々に私を苛々させ、あてのない空虚な鬱憤を感じさせた。私と町の人々とは理由のない感情から、互い漠然たる敵意を感じあつていた。

 またエッセイ「秋日漫談 私の郷土」では、退屈で単調で刺激のない「田舎」である理由を次のように指摘している。

前橋はまことに殺風景だ。湿りっ気のない、甚だ乾燥した土地だ。だから茶の湯とか音楽とか、凡そさういう遊芸といふものが殆どない土地である。つまり概して美的情操の欠けた土地なのである。それら伝統といふことの全然ないところだ。

 しかし、どうなのだろう。はたして実際の前橋は、朔太郎のいうような土地なのだろうか。『伝記萩原朔太郎』(以下『伝記』と略す)の著者嶋岡晨氏は、同書上巻第二章故郷において次のように述べている。

かならずしも朔太郎のいう「荒寥」や「陰鬱」の印象に、風土の現実は支配されてはいない。むしろ逆に、からりとした底抜けの明るさ、ほとんど大陸的な悠揚感さえ、わたしには感じられた。健康的な爽快さといっていい。(中略)年間の日照度は高知県につづいて全国二位というから、常識的にみればけっして陰鬱ではない。(中略)前橋は、れっきとした「城下町」であり、たとえ金沢や紀州には及ばなくても、前橋なりの風雅の伝統もなくはなかったはずなのだ。

 『伝記』で嶋岡氏が述べるところは、朔太郎は自らの好む「荒寥地方」という詩的イメージに実際の前橋の姿を歪曲したということだ。
 しかし、単に「荒寥地方」のイメージが好きという理由だけから郷土の姿を歪曲するだろうか。実際の前橋が、まるっきりの田舎でなかったというのは確かなのだろう。また「前橋なりの風雅の伝統もなくはなかった」のかもしれない。だが、それらは、朔太郎にとってあまりにも中途半端なものでしかなかったのではないか。朔太郎は、その「前橋なり」のものに我慢ならなかったのではないだろうか。


  何物も 私の求めるものはそこには無かった。

 朔太郎の求めるものとは、何だったのだろうか。それが「前橋なりの風雅の伝統」ではなかったことは明らかだろう。むしろ、その「前橋なり」が「私を苛々させ」たのだ。前橋が「田舎」だったから嫌悪したのではなく、嫌悪感を表現するために極端なイメージの「田舎」を押しつけたのだ。
 朔太郎が前橋を嫌悪する理由には、もう一つ「私と町の人々とは、理由のない感情から互いに漠然たる敵意を感じあっていた」ことを取り上げねばならない。だが、これについては、第二章の『純情小曲集』のところで述べたい。

 

(2)都会への憧憬


 朔太郎の求めるものは、中途半端な「前橋なり」のものではなくて、もっと極端なものであった。朔太郎が郷土前橋を「田舎」として嫌悪することは、その対立項である「都会」が憧憬の対象になることであった。つまり、田舎と都会という両極の一方を前橋に押し付け、もう一方の極、都会に自分の理想郷を見付けようとしたのだ。次の詩は、『月に吠える』の中の「さびしい人格」である。

  むしろ私はにぎやかな都会の公園を歩きつかれて、
  とある寂しい公園に椅子をみつけるのが好きだ、
  ぼんやりした心で空を見ているのが好きだ、
  ああ、都会の空をとほく悲しくながれていく煤煙、
  またその建築の屋根をこえて、はるかに小さくつばめが飛んで行く姿を見るのが好きだ。

 第2詩集『青猫』の中の都会を憧憬した詩は、「群衆の中を求めて歩く」がある。

  私はいつも都会をもとめる
  都会のにぎやかな群衆の中に居ることをもとめる
  群衆はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ
  どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲のぐるうぷだ
  ああものがなしき春のたそがれどき
  都会の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ、
  おほきな群衆の中にもまれていくのはどんなに楽しいことか

 

 田舎の人情を嫌った朔太郎だったが、やはり真の孤独は耐え難いものであり、「ひとつのさかんな意志と愛欲」を持った「群衆の中にもまれてゆく」ことを求めた。郷土前橋を「田舎」として嫌悪する代わりに、「都会こそ我が故郷、都会人こそ我が友」となったのだった。表題ともなった「青猫」の詩は、正に都会への情熱をうたったものだ。

  この美しい都会を愛するのはいいことだ
  この美しい都会の建築を愛するのはいいことだ
      (中略)
  いかならん影をもとめて
  みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
  そこの裏街の壁にさむくもたれている
  このひとのごとき乞食はなにの夢をみて居るのか。

 これらの詩は、まだ東京移住以前の作品であり、都会での実生活に基づいて生まれた作品ではない。
 先に述べたように、ここでいう「都会」は、朔太郎の考える故郷像の両極の一方であり、観念的場所である。「田舎」が実際の前橋と違うように、「都会」も実際の東京ではありえなかった。



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「家郷幻想」

第二章 東京移住


 

(1)『純情小曲集』

 朔太郎が東京移住(大正十四年二月)間もない頃に刊行した第四詩集『純情小曲集』は、前編と後編に分かれる。
 その前編「愛憐詩篇」は『月に吠える』以前(少年時代)の作品であり、後編「郷土望景詩」は大正十年頃から十五年前半にかけて発表された作品を収めている。なぜ少年時代の作品と最近作を併せたのか。その意図は、二つの序文「自序」「出版に際して」に朔太郎自らが明らかにしている。


やさしい純情ちた過去の日々を記念するため、このうすい葉っぱのやうな詩集をだすことにした。(中略)
ともあれこの詩集を出すのは、改めてその鑑賞的評価を問ふためでなく、まったく私自身への過去の追憶としたいためである。あるひとの来歴に対するのすたるじやと言へるだろう。

                                                        
(「自序」より)

 郷土!いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫ってくる。かなしき郷土よ。人々は私に情なくして、いつも白い眼でにらんでいた。単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもって、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後から唾をかけた。「あそこに白痴が歩いて行く」そう言って人々が舌を出した。(中略)
人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故郷の家をのがれ、ひとり都会の陸橋を渡っていくとき、涙がゆえ知らず流れてきた。えんえんたる鉄路の涯へ汽車が走って行くのである。
郷土!私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩を贈りたい。

                                                    
(「出版に際して」より)


 『純情小曲集』は、東京移住を果たした半年後に刊行しているが、その収録作品は、「愛憐詩篇」が少年時代の作であり、「郷土望景詩」の方も、その多くが移住以前に書かれたものだ。念願であった「青猫」等の詩でひたすら憧憬した都会東京への移住が適ったのである。朔太郎にとって新しい人生の門出を意味していたのかも知れない。だが、その前に、郷土で過ごした苦汁の日々を、憤怒の思いを過去のものにしてしまう必要があったのだ。
 朔太郎は、前章で述べたように前橋を嫌悪していた。だが、それは受け入れてもらえなかった郷土愛の裏返しであるともいえる。朔太郎は、このような愛憎という分裂した感情で、ストレートに郷土愛を表現できずにいた。ここに朔太郎の積年の苦悩があったと言えるだろう。
 しかしその憤怒の部分を過去の記念碑としてしまう、つまり出郷することで、初めて郷土愛を表現することが出来たのである。まさに室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」であった。
 さて、ここで一つ問題があるのだが、それは朔太郎の郷土への憤怒を虚構、あるいは被害妄想とみる説があるのだ。つまり「出版に際して」の中にある―わたしの背後から唾をかけた。「あそこに白痴が歩いて行く」そう言って人々が舌を出した―という事実があったかどうかだ。
 前章のも引用した『伝記』の嶋岡氏は、やはりこの問題に関しても、前橋を「荒寥地方」の詩的イメージに歪曲させたと同様に、全くの虚構であるとみている。

 
朔太郎の目にうつる故郷は、けっして散文家の客観的にうつる故郷ではない。それは風土や景観にとどまらず、そこに住む人びとのこころも歪曲せずにはいなかった。

 そして「出版に際して」の問題の部分を引用した後「そういう事実もほとんどなかった」という。さらに昭和二十二年の「萩原朔太郎詩碑建設準備委員会」の会合において、若い頃から朔太郎と接触の深かった高橋仁太郎、岡崎秀雄らに、このことを問い質した東宮七男氏の文章から引用する。

「それは萩原君の思いすごしだよ」
「それは一般人を白痴と言った逆説みたいなものではないか」
「被害妄想という言葉があてはまるのではないか」

 嶋岡氏は、文学者(詩人)はその創作の為には事実を歪曲(虚構)するが、一般の人々の発言には、歪曲がないと思っている。
 だが、むしろ文学者や一般の人に限らず、人は自分自身に関する事に対しては都合よく歪めてしまうものであり、無意識的に自己欺瞞に陥るものであると私は思っている。この場合、前橋の人々の証言には郷土を悪く思われたくないとの心理が働いたのかも知れないのだ。もし朔太郎が生きていたら、そのような無自覚な欺瞞こそ我慢ならないと感じたのではないだろうか。
 朔太郎が、第一詩集『月に吠える』を出版し認められたのは三十二歳の時だった。
 それまでの朔太郎は、前橋中学校を二十歳で卒業し、その後の五年間は、上級の学校を第五高等学校、第六高等学校、慶応義塾大学予科と転々する。二十八歳になって、ようやく前橋に落ち着く決心をし、小屋を改造した書斎で、短歌、詩を本格的に創作するようになる。
 この五年間の学校遍歴が郷里の人の目にどのように映っただろうか。町の名家であった萩原家の跡取り息子が、家業である医学をではなく文学を専攻し、落第、転校、退学を二十八歳になるまで繰り返したのである。

 その後の『月に吠える』出版までの四年間はどうだろうか。
 大正二年は、中央の文芸雑誌「朱欒」「創作」「詩歌」に詩が掲載され、「上毛新聞」に短歌を載せ、「上州新報」の投稿欄「上州歌壇」の選者となる。大正三年は、室生犀星、山村暮鳥と「人魚詩社」設立。また若い詩人により「侏儒」を創刊。文芸音楽雑誌「異端」の同人となる。そしてこの頃より地元の音楽愛好家を集めてゴンドラ洋楽会を編成した。(後に上毛マンドリン倶楽部と改称、その主宰と指揮を行った。)大正五年は、自宅で「詩と音楽の研究会」を開き、地元の歌人、音楽愛好家たちに詩の講義や楽譜の解説をするようになる。そして室生犀星と二人雑誌「感情」の創刊となる。
 この四年間に関しては、地元の文化人として活躍し、それなりにその才能を認められていたのは確かだろう。だが、それによって大きく収入があったとは思えない。朔太郎の父密蔵は文学者を「羽織ゴロ」と呼び嫌ったが、文学や音楽に理解を持たない人々にとっては、所謂「道楽息子」との世評があったとしても不思議ではない。
 『若き日の萩原朔太郎』は、朔太郎の良き理解者であった従兄萩原栄次宛の書簡を、栄次の息子である萩原隆氏が解説と「私見」によってまとめたものだ。その収録された書簡の中に大正三年十一月十一日付のものがあり、その内容は室生犀星が前橋を訪れたおり、萩原家の近所の理髪店で起こったことを書いている。


(犀星が理髪店で髭を剃っていると)店に来合わせて来た他の客と理髪店の主人が世間話を始めたのですが、どういうわけか話が私のことに及び「萩原のバカ息子にも困ったものだ、いい年をして何の仕事もせずのらくれして酒ばかりのんで居る」といふようなことから私の非難が頗る猛烈になって来た。

 この後、犀星は聞くに忍びず立ち上がって主人を殴らんとしたと書いている。この「室生犀星、床屋の段」は、嶋岡氏の『伝記』にも引用されているが、「事実であっても、その世評がすべてではあるまい」と暗にこれも虚構の可能性があることと例外的な評価であるようにとっている。
 確かに「殴らんとした」というくだりは、話を面白く脚色してオーバーにした感はある。だが、朔太郎の才能を認める一方で、こういう雰囲気があったことは十分考えられるのだ。同書の中で萩原隆氏は、次のようなエピソードを語っている。


私が食事の時などにグズグズしていると、きまって、
「そんな食べ方していると、今に朔ちゃんみたいになるよ!」
「朔ちゃんてえらい人じゃないの?」
私の問いかけに対して応えはなかった。


 これは親戚内の朔太郎に対する評価だが、やはり萩原家の周囲の人々についても同様のことが、いやそれ以上に辛辣な評価があってもおかしくないと思うのだ。
 ともあれ『純情小曲集』は、一冊の詩集としては郷土への愛を示しているが、詩の一編一編には郷土への憤怒をみることが出来る。彼が、どんな思いで生活していたか、次の詩を読むと明らかだろう。


きのう身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
 (中略)
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来たりて石を投げてあそびくらしつ。
                                                  (「利根川のほとり」より)

人気なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷のひとのわれに辛く、
かなしきすももの核を噛まんとするぞ。
 (中略)
つれなきものへの執着をされ。
われは指にするどく研げるナイフをもち
若葉のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。
                                                    (「公園の椅子」より)


(2)「青猫以後」

 第五詩集『萩原朔太郎詩集』(昭和三年刊)に収録された「青猫以後」の詩編は、大正十二年から昭和三年、朔太郎三十八歳から四十二歳にかけて発表されたもので、「郷土望景詩」と時期的に重なる。だがここで注目すべきは、実際の東京生活から生まれた「鴉」「大井町」「空家の晩食」等の作品が収められていることである。

どこにも人間の屑がむらがり
そいつが空腹の草履をひきずりあるいて
やたらにゴミタメの惣を喰ふではないか。
なんたる絶望の光景だろう
わたしは魚のやうにつめたくなって
目からそうめんの涙をたらし
情慾のみたされない いつでも陰気な悶えをかんずる。

                                                         
(「鴉」より)

 かって「群衆の中を求めて歩く」という詩の中で、おほきな感情をもった浪、どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲のぐるうぷと見えた都会の群衆が、ここでは人間の屑となり、ゴミタメの葱を喰ふ絶望の光景に見えてしまう。もはやどんな楽しい思いで、なんとやすらかな心で歩いた道も情慾のみたされない陰気な悶えを感じてしまう。

おれは泥靴を曳きずりながら
ネギやハキダメのごたごたする
運命の露路をよろけあるいた。
 (中略)
へんに紙屑がぺらぺらして
かなしい日光のさしているところへ
餓鬼共のヒネびた声がするではないか。
おれは空腹になりきっちゃって
そいつがバカに悲しくきこえ
大井町織物工場の暗い軒から
わあと言って飛び出しちゃった。
                                                       (「大井町」より)

 朔太郎が大正十四年二月中旬の東京移住で、最初に住んだのが大井町だった。当時の生活については、エッセイ「ゴム長靴」に次のように書いている。

大井町へ移住して来た時、ひどい貧乏を経験した。田舎の父から、月々六十円宛をもらう外、私自身に職業がなく、他に一銭の収入もなかった。

 当時の六十円は一家四人の生活に必ずしも少ない金額ではなかったが、朔太郎にとっては初めての体験だった。その後の二年間に、大井町から田端、鎌倉、そして馬込と移転する。
 昭和二年発表のエッセイ「移住日記」は、その間の経緯を記したものだ。これによると朔太郎は、この大井町をかなり気に入っていた。「田舎から始めて出て、あの工場の町の大井に住んだ時は、一ばん印象が深かった」「あの大井町の気分ほど、不思議にのすたるじやのものはない」という。その理由は、詩集『青猫』で幻想した都会の景色にそっくりの為だった。


丁度私が此所に来た時、私は自分の前から幻想した、詩の中の景色を現実に見る気がした。

 
これを見ると「鴉」や「大井町」の詩にうたったものと矛盾しているようにもみえるが、だからといってまた虚構を持ち出すには及ばない。朔太郎は、常に矛盾した感情を持ってしまうのである。だからこそ「都会」を絶対のユートピアとして幻想したのだが、東京に対しても矛盾した感情を持ってしまった。それは、すでに「都会」も朔太郎の求めるものではなくなって来ていることを示している。



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「家郷幻想」

第三章 漂泊者としての認識


(1)『氷島』

 第六詩集『氷島』は、昭和十年六月に刊行された。収録作品二十五編のうち四編は、「郷土望景詩」からの再録。二十一編の新作品は、大正十五年四月から昭和八年六月にかけて各種の雑誌に発表されたもの。朔太郎四十一歳から四十八歳の時である。
 朔太郎は、その著書には必ず序文を付け、刊行の意図を述べた。そういう意味で、この『氷島』の「自序」も(『純情小曲集』の場合と同様に)重視しなければならない。それによると、朔太郎は、この詩集を
芸術的意図と芸術的野心を廃棄し、単に「心のままに」書いた著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるという。したがってこの詩集の作品については、特に実生活と照らし合わせてみていくことになる。
 そしてさらに「自序」を読むと、『純情小曲集』から「青猫以後」を経て、また新たな心境に変化したことが分かる。それは自らの過去を次のように認識したからだ。

北海の極地を流れる、侘しい氷山の生活だった。(中略)氷山の嶋々から、幻像のやうなオーロラを見て、著者はあこがれ悩み、悦び、悲しみ、且つ自ら怒りつつ、空しく潮流のままに漂白して来た。
                                               (「自序」より)

 これは『青猫』で我が故郷と憧憬していた都会が、ついに幻想のまま終わってしまったことを意味する。郷土には私の求めるものは何もないと都会を理想郷のように幻想したが、実際の都会東京に住んでみると、やはりここも理想郷ではありえなかった。このことを激しく痛感した後には、人生への後悔、空しさ、徒労感しか残らない。いわば幻想を追いかけるロマン主義者朔太郎は、ここに来て遂にニヒリスチックになってしまう。
 著者は「永遠の漂泊者」であり、何処にも宿るべき家郷を持たない。この詩集は、その悲痛な、そして激しい叫びで満たされている。巻頭の序詩「漂泊者の歌」は、その思いが最も集約されたものである。

日は断崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限の遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。
 (中略)
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖の漂泊ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
                                                (「漂泊者の歌」より)


 いつ頃から漂泊者としての認識が出来たのだろうか。次に挙げる「品川沖観艦式」は、昭和三年十二月一日、横浜で行われた御大礼特別観艦式を題材にしている。

既に分列の任務を終えて
艦等みな帰港の情に渇けるなり。
 (中略)
錆は鉄板に食ひつけども
軍艦の列は動かんとせず
蒼茫たる海洋の上
彼等の叫び、乾き、熱意するものを強く持せり。
                                                (「品川沖観艦式」より)


 任務を終えた艦船が、その所属する軍港に帰るのを待っているように、自分もまた帰るべき港(家郷)のことを思った。だが、その港は何処にもない。漂泊者の叫びである。この詩は、昭和六年三月に雑誌発表されたもので、観艦式のあった昭和三年に書かれたとは限らないが、この頃から、稲子夫人を中心にして家庭内外が紛雑し始める。
 朔太郎は、昭和元年に馬込に移住した。その当時は尾崎一雄、宇野千代を中心に一種の文士村を形成しており、サロン的交流があった。そして昭和三年、そこに流行したダンスに熱中した稲子夫人は、相手の青年と恋仲になる。昭和四年三月に朔太郎は、室生犀星から厳しい忠告を受けるが、六月末か七月早々には単身帰郷してしまう。そして七月末に上京し、稲子と離婚する。同時に馬込の家も解散し、二児を伴って帰郷する。
 次の詩「帰郷」は、その時の帰郷する列車の中の情景を中心に(実際は夏だが)寒々とした心情で歌っている。

わが故郷に帰れる日
列車は烈風の中を突き行けり。
車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔は平野を明るくせり。
(中略)
砂礫のごとき人生かな!
われは既に勇気おとろへ
暗澹として長なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に
人の憤怒を烈しくせり。
                                                (「帰郷」より)


 そしてその年の十一月に再び上京。赤坂のアパート「乃木坂倶楽部」に仮寓し、ダダイストの辻潤、詩人の生田春月らと交友を深めた。十二月中旬、東京定住に方針を決め、妹アイと住む借家を捜すが、同月下旬、父密蔵が発病し、重態に陥る。「乃木坂倶楽部」を引き払い帰郷する。
 この「乃木坂倶楽部」での一月余りの生活は、
「連日荒妄し、懶惰最も極めたり。白昼はベッドに寝ねて寒さに悲しみ、夜は遅く起きて徘徊す。まれに訪う人あれども応えず、扉に固く鍵を閉ざせり」(「詩篇小解」より)といったものだった。そしてベッドに横たわり、ひたすら思惟を続けていた。

わが思惟するものは何ぞや。
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢えたるかな。
我は何物をも喪失せず。
また一切を失ひ尽くせり。
                                                (「乃木坂倶楽部」より)


 「家畜の如くに飢え」とあるが、どういう飢えであろうか。岡庭昇氏は、評論『光太郎と朔太郎』の中で「家畜の如く飢えるというのは比喩としては奇妙である」と述べる。だが、朔太郎がその比喩によって表現したかったこととは、次のようなことだろうと思う。
 野獣の飢えは、自らの狩りで獲物を得ることによって納まる。つまり自らの行動によって、未来にその飢えが満たされる可能性を持つものである。しかし家畜の飢えとは、そのような飢えではなく、家畜である限り死ぬまで満たされることはあり得ない精神的飢えである。自己存在の本質的な飢え、満たされる可能性の閉ざされた飢えである。
 『氷島』には、動物比喩が多く登場するが、「動物園にて」にせよ「虎」にせよ、この家畜の飢えと同様の叫びである。

わがこの園内に来れることは
彼等動物を見るに非ず
われは心の檻に閉ぢられたる
飢餓の苦しみを忍び怒れり。
                                                (「動物園にて」より)


薄暮に迫る都会の空
高層建築の上に遠く座りて
汝は旗の如くに飢えたるかな。
杳として眺望すれば
街路を這ひ行く蛆虫ども
生きたる食餌を暗鬱にせり。
                                                 (「虎」より)


 「虎」という作品は、デパートの屋上の檻に閉じ込められた虎の悲哀を歌ったものだ。朔太郎は、動物園の猛獣やデパートの虎に自らを見る思いがした。ここでは、かつて「わが故郷」と憧憬した都会はもはや幻滅し、「ひとつのさかんな意志と愛慾のぐるうぷ」だった群衆も「蛆虫」と化してしまった。都会もやはり自らの帰すべき家郷ではありえなかった。朔太郎にとって「家郷」とは、その心の檻から満たされぬ慾情を開放してくれる理想郷(ユートピア)であった。(尚、朔太郎の言う「慾情」とは、性欲ということではなく、美を追究する心とでも言えるものだ。)
 「動物園にて」の雑誌発表は昭和五年二月だが、同年七月に父密蔵が死去し、十月に妹アイと再び上京する。
 昭和六年は、『氷島』収録作品の多くが雑誌発表された年である。(一月「昨日にまさる恋しさの」、三月「珈琲店 酔月」「乃木坂倶楽部」「帰郷」「家庭」「新年」「晩秋」「品川沖観艦式」、六月「漂泊者の歌」、七月「遊園地にて」、十二月「殺せかし!殺せかし!」)また同年五月には、『恋愛名歌集』も刊行している。
 昭和八年は、一月に新築移転し、母ケイ、二児、妹アイとともに住む。また同年六月、個人雑誌『生理』を創刊し、その雑誌に「国定忠治の墓」「虎」を発表する。
 そして昭和九年六月に第六詩集『氷島』は刊行された。
 このように『氷島』の作品と実生活とを併せ見ると、漂泊者としての自己認識は、東京生活の幻滅、稲子夫人との離婚、父密蔵の死去(前橋に帰る理由がなくなる)が深く影響していることが分かる。

(2)『詩の原理』

  朔太郎にとって実生活の事件が、漂泊者の認識を決定的にしたと言えるかも知れない。しかし、それ以前に自らの生きる時代を過渡期と捉えていたことが、この認識の背後にあったと考える。その過渡期の時代認識は、ちょうど稲子夫人の所業で家庭内が紛雑化していた頃の昭和三年十二月に刊行した『詩の原理』において為されていた。
 『詩の原理』は、その序によると
「自分は寝食を忘れて兼行し、三ヶ月にして脱稿した。しかしこの思想をまとめる為には、それよりずっと永い間、殆ど約十年を要した」と言う。本書の内容は、次の通りである。

自分はこの書物に於いて、詩に関する根本の問題を解明した。即ち詩的精神とは何であるか、文学のどこに詩が所在するか、詩と言われる概念の本位は何であるか、等々について、思考の究極する第一原理を論述した。
                                                  (『詩の原理』「序」より)


 本書を過渡期という時代認識の面からみると、「第十三章 日本詩壇の現状」と「結論 島国日本か?世界日本か?」の二章がそれに当たる。まず「第十三章 日本詩壇の現状」で次のように述べる。
 朔太郎は、自由詩を
「何等の法則された律格をも有しないで、しかも原則としての音楽を持つところの、或る『韻律なき韻律』の文学である」と言う。だが、現にある口語自由詩は、この点で全く落第であり、朔太郎自身の作品も極少数の作品を除いて「一も真の音律的魅力を持たず、朗吟に堪えない」ものである。そしてそのようなものは決して「自由詩」であると言えず、「要するに今日の所謂自由詩」は、「没音律の散文が行分けの外観でごまかしているところの、一つのニセモノの文学であり、食わせものの似而非韻文であると身も蓋もなく断言する。
 その原因は、明治末に西洋の言文一致が持ち込まれてから、今日まだ漸く半世紀にも達せず、この短い間ではとても芸術的に完成されておらず、詩として使用するに堪え得る音律や美がないのは当然であると言うのである。

要するに現時の詩人は、日本文明の混沌たる過渡期に於ける、一つの不運な犠牲者である。(中略)今日の我が国は、過去のあらゆる美が失われて、しかも新しい美が創造され得ない、絶望悲痛のどん底に沈んでいる。

                                    
(『詩の原理』「第十三章 日本詩壇の現状」より)

 そして混沌たるこの時代には、詩の言語を考えるのではなくして、先ずその根底たる日常語を改訂し、芸術化し、「散文学」そのものの本塁を、新しい文化の上に築くことを提唱する。
「然り!詩の時代は未だ至らず。今日は正に散文前期の時代である。」つまり朔太郎にとって過渡期という時代認識は、次のようなことを意味していた。

(1)朔太郎が過去に創作した自由詩は、西洋まがいの無理な自由詩=似非韻文であり、伝統詩形の和歌や俳句の芸術的完成には遙かに及ばないものであったということ。
(2)過渡期に於いては、過去の美が失われ、新しい美もまだ創造され得ない。つまり朔太郎の求めるももの何も無い時代であるということ。
(3)混沌たる過渡期に於いては、詩人が詩人となり得ない時代であるということ。

 徹底した二元論で語られるこの『詩の原理』は、正に近代の引き裂かれた日本人の自我をそのまま現している。朔太郎の分裂した故郷観とは、近代日本そのものだったのだ。
 そしてそのことは、昭和六年刊行の『恋愛名歌集』の「序文」にも見ることが出来る。

現代は過渡期であり、正に日本文化の大破壊時代である。むしろ今日の詩人の仕事は、創造ではなくして破壊の方面にあるかも知れない。だがそれだけ時代は悩み、心の荒寥とした空虚感から、過去の完成した美と芸術にあこがれている。とりわけ現代の過渡期詩壇―ああ、そこには何もない。―にとって、この憧憬は一層深く、昔の美しく完成した抒情詩が懐かしまれる。げに我々の詩人にとって、歌は美と芸術への恨めしき懐古である。
                                    
(『恋愛名歌集』「序文」より)

 これらのことから、詩人朔太郎にとっての拠り所であった西洋文明への憧憬、近代日本の建設への意志が、脆くも崩壊してしまったと考えられる。そしてこの「序文」で予想されるように、「伝統的なるもの」「日本的なるもの」に関心を深めていくことになる。



萩原朔太郎論
「家郷幻想」

第四章 過渡期の詩人として


(1)伝統的なるもの

  『氷島』以後の言わば晩年期に於いては、詩作品は数編の散文詩を除いて殆ど発表しなくなる。 そのかわり詩論、歌論、文明批評等のエッセイは精力的に発表し続ける。 昭和十年から昭和十五年の間に十二冊の著書と一冊のアンソロジーを刊行している。それは次の通りである。

 昭和十年  『純正詩論』『絶望の逃走』
 昭和十一年 『郷愁の詩人与謝蕪村』『定本青猫』『廊下と室房』
 昭和十二年 『詩人の使命』『無からの抗争』
 昭和十三年 『日本への回帰』
 昭和十四年 『宿命』
 昭和十五年 『昭和詩抄』『帰郷者』『港にて』『阿帯』

 このうち第七詩集『定本青猫』は、その収録作品を既刊の『青猫』『蝶を夢む』『萩原朔太郎詩集』から六十七編を再録し、これに未収録だった作品二編を加えて、新たに編集したもの。 また第八詩集『宿命』は、抒情詩全部を既刊の詩集から再録し、散文詩も新作品六編の他は既刊のアフォリズム集三冊から再録したものである。
 詩論をまとめたものは、『純正詩論』『詩人の使命』とあるが、他のエッセイ集『無からの抗争』『日本への回帰』『帰郷者』の中にも見ることが出来る。 そこに述べられる多くのことは、『詩の原理』で提出された問題―過渡期の詩人としての在り方である。『純正詩論』の巻頭「西洋の詩と東洋の詩」には、次のようにある。

かつて僕は、旧著「詩の原理」で巻尾に結論して一つの宿題を提出した。 それは、「島國日本か?世界日本か?」と標題した反問だった。そしてこの問題は、今日まで尚ほ依然として未解決に残されている。
                                          (『純正詩論』「西洋の詩と東洋の詩」より)


そして巻尾「詩の未来」に、その問題を次のように述べる。


日本の対立している二種のポエムがかくて一つの「詩」に融合統一される時が、その未来こそ、同時にまた日本文明が統一された時なのである。 換言すれば、我々日本人の文明が、西洋文明を自家に消化し、別のユニイクな新文明を、新しく世界に創造した時なのである。
                                                (『純正詩論』「詩の未来」より)


 こう詩の未来を語る朔太郎なのだが、彼自身にはもうその未来に向かって行く力と時間は残されていない。
 そのことを『詩人の使命』収録の「『氷島』の詩語について」で、次のように述べる。


新しい日本語を発見しようとして、絶望的に悶え悩んだあげくの果て、 遂に古き日本語の文章語に帰ってしまった僕は、詩人としての文化的使命を廃棄したやうなものであった。 僕は老いた。望むらくは、新人出でて、僕の過去の敗北した至難の道を有為に新しく開拓して進まんことを。
                                        (『詩人の使命』「『氷島』の詩語について」より)


 この頃から朔太郎の文章には、過去の完成された美、伝統的なるもの(和歌、俳句、能など)に関するものが多く登場する。 『廊下と室房』の「和歌と恋愛」「悲恋の歌人式子内親王」や『詩人の使命』の「俳句について」「蕪村俳句の再認識について」等である。
 また蕪村と芭蕉に関しては、一冊にまとめられたものとして『郷愁の詩人与謝蕪村』がある。その主旨をまとめると、おおよそ次の通りである。
 今日に於ける蕪村の評価は、正岡子規一派の俳人等がその独自の文学観で鑑賞批評したものを無批判に伝授している。 それは、芭蕉に比して客観的の詩人、客観主義的態度の作家であり、技巧的主知的、印象的、絵画的であるということだ 。だが、多くの人は、これら客観的特色の背後に於ける詩人その人の主観を見ていない。 この主観こそ正しく蕪村のポエジイ、詩人の訴えようとするところの抒情詩の本体である、という。
 そして朔太郎は、その主観とは、次のようなものだと主張する。


それは、時間の彼岸に実在している。彼の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思ふ、子守唄の哀切な思慕であった。
                                                (『郷愁の詩人与謝蕪村』より)


 また付録「芭蕉私見」に於ける芭蕉の句の解釈も「枯枝に止った一羽の鳥は、彼の心の影像であり(中略)漂泊者の黒い凍りついたイメージだった」 であり、「魂の家郷を持たない芭蕉」であった。これらの主張は、取りも直さず朔太郎自身の投影であり、自らの心象風景を見ているのである。


(2)日本的なるもの

 このように先人の文学者に対して漂泊者の影を求めた朔太郎であったが、それは同時代の永井荷風にも向けられる。
 『無からの抗争』のエッセイ「漂泊者の文学」である。


(永井荷風の『墨東奇譚』は)老いてその家郷を持たない一文学者が、赤裸に自己の生活を告白し、 寄るべなき漂泊者の寂しさを、綿々纓々として叙べ訴へた抒情詩であり、併せて一の魂の哀切なる懺悔録である。/ 我等の時代の日本人は、老いたる者も若き者も、共にその安住すべき家郷を持たないことで、現実の悲しみを共にしている。(中略)すべての人は家郷の「日本」さへ見失っているのである。
                                            (『無からの抗争』「漂泊者の文学」より)


 ここでは、単に個人としての共感だけでなく、同時代を生きる者としての共感を述べている。 過渡期に於いては、人は家郷を持ち得ない漂泊者である。 何も家郷を持たないのは自分だけでなく、寧ろ近代日本の状況そのものが「日本」を見失っていると朔太郎は考えた。
 この辺りから朔太郎の文章は、その「日本」というキーワードによって、また分かり難い表現によって迷走していく。
 朔太郎は、昭和十一年十二月「日本浪漫派」同人となり、昭和十三年三月『日本への回帰』が刊行される。 その巻頭の標題と同名のエッセイ「日本への回帰」において、こうして日本的なるものに帰ってきた自分を浦島に譬える。


少し以前まで、西洋は僕等にとって故郷であった。 昔浦島がその魂の故郷を求めようとして、海の向うに、西洋という蜃気楼をイメージした。だがその蜃気楼は、今日もはや幻想から消えてしまった。
                                           (『日本への回帰』「日本への回帰」より)


 ここで言えることは、朔太郎が以前憧憬した都会とは、実は西洋のことであり、日本近代化の夢だったのだ。そして敗北し、再び古い日本へ回帰したということである。
 だが、朔太郎は本当に回帰したと言えるのだろうか。朔太郎は自らを「漂泊者」と認識したはずではなかったのか。 漂泊者とは、帰る場所を持たない者であるはずだ。それが「回帰」という言葉を使うのはおかしい。そしてこのエッセイの後半、次のように述べる。


むしろ西洋的なる知性の故に、僕等は新日本を創設することの使命を感ずる。(中略) 今や再度我々は、西洋からの知性によって、日本の失われた青春を回復し、古い大唐に代るべき、日本の世界的新文化を建設しようと意志しているのだ。
                                                  (同書「日本への回帰」より)


 ここの文章からすると、決して日本的なるものへ全面的に回帰した訳ではない。まだ西洋を捨てていないからだ。 寧ろ西洋の知性によって日本の世界的建設を意志すると言うのだ。(大仰な文章が鼻に付くけれど)それなのに何故「日本への回帰」なのだろうか。
 それは、エッセイ「『氷島』の詩語について」で述べたように、朔太郎は詩人として敗北した。それは「遅すぎた悔恨」なのであり、もはや再起不能であった。
 朔太郎は、『氷島』以後、抒情詩の新作は発表しなくなる。いや、もう書けないのだ。再起不能の詩人に未来の建設は出来ない。 そんな朔太郎に残されたものは何であっただろうか。この短いエッセイ「日本への回帰」は、次のような文章で結ばれている。


日本的なるものへの回帰!それは僕等詩人にとって、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。 誰れか軍隊の凱歌と共に、勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかける者よ。暫く我が静かなる周囲を去れ。
                                                 (同書「日本への回帰」より)


 「日本への回帰」というエッセイは、その題名からして非常に誤解を招くものである。 つまり「回帰」という言葉が引っかかるのだ。朔太郎が言いたいことは、「漂泊者」と「日本的なるものへ回帰すること」がイコールなのではない。 あくまでも漂泊者の歌う「歌」が、「日本的なるもの」なのである。
 その歌とは、朔太郎が与謝蕪村のポエジイの本質として述べたものと同質の「郷愁」であり、「子守唄の哀切なる思慕」なのだ。 それ故に、朔太郎がこの「日本への回帰」という言葉を使う時、そこには自嘲的、あるいは自己憐憫的思いが込められている。 だからこそ決して国粋主義の勇ましい進軍喇叭で歌われるものではないと言っているのだ。
 だが、それにしてもである。この場合の「回帰」という言葉の使用は、あまりにも不適当であり、分かりにくい。 誤解を招くのは当然である。あるいは朔太郎自身が、すでに曖昧になって来ているのかも知れない。
 朔太郎は、昭和十二年十二月「東京朝日新聞」に、ただ一編の戦争協力詩「南京陥落の日に」を発表する。 また「新日本文化の会」加入や『日本への回帰』等によって一部から「日本主義者」と批評された。
 これに対し昭和十四年「文藝」八月号に「弁明」を書く。 それは「日本の伝統文化に対して深甚な関心をもち、国粋的なものに強い愛着を示す」意味で日本主義者であり、「政治上」の日本主義者とは別であるという主旨であった。
 また「南京陥落の日に」は、決して積極的なものではなく、昭和十二年十二月十一日付の丸山薫宛の書簡によって明らかである。


朝日新聞の津村氏に電話で強制的にたのまれ、気が弱くて断り切れず、とうとう大へんな物を引き受けてしまった。 (中略)とにかくこんな無良心な仕事をしたのは僕としては生まれて始めての事。西条八十の仲間になったうで、懺悔の至りに耐へない。
                                                    (丸山薫宛書簡より)


 だが朔太郎の仕事が時局への順応に見えたのは、やはり仕方のないことだった。そして昭和十四年九月、第八詩集『宿命』を刊行する。 その中の新作品「物みな歳月と共に亡び行く」は、昭和十二年二月に前橋に帰郷した折りに「郷土望景詩」に歌った場所を取材している。


物みな歳月と共に亡び行く―郷土望景詩に歌ったすべての古蹟が、殆ど皆跡方もなく廃滅して、 再度まだ若かった日の記憶を、郷土に見ることができないので、心寂寞の情にさしぐんだのである。
                                       (『宿命』「物みな歳月と共に亡び行く」より)


 かつて古い日本の象徴として「田舎」という言葉で憎んだ郷土も今は見る影もない。そして同時に朔太郎自らも年老いてしまった。
 昭和十五年七月、エッセイ集『帰郷者』が刊行される。その題名がまたもや紛らわしい限りである。その「自序」には、次のようにある。


悲しき帰郷者!我等はその行くべき所を知らず、泊まるべき家を持たない。
                                                 (『帰郷者』「自序」より)



「漂泊者」がいつの間にか「帰郷者」に変わっているのだ。だが、この帰郷はあくまでも漂泊の中でのことなのである。 それは、ほとんど同時に刊行されたアフォリズム集『港にて』の「自序」と並べて見ると分かる。


書名を「港にて」と題したのは、この書が私にとっての休息であり、航海の終った日を記念するからである。(中略) とにかく私は、荒天の日の航海から、一先づ港に入った思ひがして居る。何時また私は新しい出帆をするかも知れない。 だがその風を待っている間、私はこの「港にて」休息しながら、次の航海を待機しよう。
                                                  (『港にて』「自序」より)


 そして朔太郎最後の著書は、昭和十五年十月刊行のエッセイ集『阿帯』である。その題名の意味は「白痴者」であるという。


こんな文学をする以外に能もなく、無為に人生の定年を過ごした私は、まさしく白痴者にちがいない。
                                                   (『阿帯』「自序」より)


 極めて自嘲的である。そして昭和十六年秋頃から肉体の変調を感じ、昭和十七年四月頃から病状はとみに悪化し、肺炎の為に五月十一日、遂に永眠する。享年五十七歳だった。


萩原朔太郎論
「家郷幻想」

むすびに


(1)まとめ


 「はじめに」で、テーマを「故郷への愛憎という相反した感情が、彼の作品にどのように影響したか、また何故そのような感情を持たねばならなかったか」とした。 朔太郎のいう故郷とは、単に郷土前橋を示すものではない。それとは別に、魂の故郷を示している。 つまり朔太郎の場合、郷土が魂の故郷となり得なかったのだ。ここに朔太郎の不幸の原因があった。
 朔太郎の故郷感は、まず詩集『月に吠える』『青猫』の時期に、「田舎と都会」という言葉で表現された。 朔太郎は、郷土前橋を田舎として嫌悪した。実際の前橋は、まったくの田舎という訳ではない。 しかし朔太郎にとって、求めるものの何もない中途半端な町だと感じていた。朔太郎の求めるものは、芸術的精神の解放される理想郷という極端な世界だ。 結局それは、前橋に両極の一方「田舎」を押し付け、もう一方の極「都会」を魂の故郷とすることだった。
 そして朔太郎は、東京移住を決意する。詩集『純情小曲集』は、出郷記念として刊行された。 それは、郷土で過ごした苦渋の日々や憤怒の思いを過去の記念碑としてしまうことを意図していた。 これで朔太郎は、郷土を望景し、懐かしむことが出来た。つまり逆説的な郷土愛を表現することであったのだ。
 だが「青猫以後」の作品にみられるように、現実の東京生活が、朔太郎の幻想した都会であるはずもない。 ついに都会生活は、妻稲子との離婚という形をとって破綻する。そして父密蔵の死去。 これによって前橋に帰る必然性もなくなり、また自分ももう若くないことを身にしみて感じる。 こうして帰るべき家郷を喪失してしまった朔太郎は、自らを「漂泊者」と認識する。これらのことを表現したものが、詩集『氷島』だった。
 だが、これは実人生からだけ見た側面である。朔太郎自身が文学者、詩人として自らをどう認識していたか。 それは『氷島』と同時期刊行の詩論『詩の原理』に於いて、自らの生きる時代を過渡期と捉えたことから語られる。
 過渡期には、過去の美が失われ、新しい美も創造され得ない。それは朔太郎にとって求めるものが何もないということだ。 つまり明治になって持ち込まれた西洋(近代)は、日本に於いて未だ根付いていないことを痛感する。 それは取りも直さず、朔太郎が過去に創作した自由詩が「西洋まがい」の似非韻文でしかなく、伝統詩形(和歌、俳句など)の芸術的完成に遙かに及ばないという思いだった。 そんな認識を背景に、朔太郎自らが「退却」と言う漢文調の文章語で詩集『氷島』は創作されたのだ。
 現在は過渡期であり、人は家郷を持ち得ない。そして自らは、挫折した詩人であり、未来にそれを求めることも出来ない。 そうなると朔太郎に出来ることは、過去への悲しい「郷愁」しかない。 「伝統的なるもの」「日本的なるもの」に関する著作『恋愛名歌集』『郷愁の詩人与謝蕪村』『日本への回帰』等は、このような状況の下、著された。
 
 朔太郎は、自らの人生をよく航海に譬えた。それは彼が、ユートピアンだったからだろう。 (そう言えば「虹を追う人」という短い対話劇も書いている。全集第四巻所収)そして晩年期には、浦島の譬え話を自嘲的に使った。 これと同じ比喩を使って、ユートピアンの運命を書いたエッセイがある。花田清輝の『復興期の精神』の中の「架空の世界」である。
 

前進している間はいい。(中略)やがてあらわれるであろう「絶対」の姿を期待している間はいい。 しかし陸地とは、ついに幻影であり、(中略)どこにも信用のおける足場といってなく、幻影から幻影へと彷徨しているうちに、 ともすると人は、最初に捨ててきた古い世界の地盤がいちばん、しっかりしていたのではないかというような不甲斐ない錯覚におそわれはじめる。 かれは引き返す。だが、引き返したら最後だ。(中略)復讐の機会をうかがっていた時間が、このときとばかり、猛然とかれに躍りかかる。 (中略)いまさら年をとったと嘆いたところで駄目であり、海亀にのって出発した我々の昔話の主人公は、 故郷の風物が一変し、誰ひとり、かれを見知っている人間のいないことに気づくのだ。
                                           (花田清輝『復興期の精神』「架空の世界」より)


 まさに朔太郎の運命そのものをよく言い表している。「架空の世界」が発表されたのが、昭和十六年十一月だから、朔太郎の死去する半年前である。 だからこのエッセイは、(コロンブスのことを題材に書いたものだが)言外に朔太郎を含む日本浪漫派に対して揶揄しているのかも知れない。
 だが朔太郎自身、ユートピアンの運命くらい知っていた。それでもどうしようもなかったのだ。



近代のドンキホーテは、ずっと懐疑的の性格であり、宿屋の女中を女中と知って、 自らその虚妄の中に幻住し、情熱の破綻を意識して居るからである。
                                            (『絶望の逃走』「ドンキホーテの近代性」より)


(2)朔太郎を通して考えること


 萩原朔太郎は、その作品によって随分印象が違う。「月に吠える」「青猫」の口語自由詩にみられる病的なまでのイメージの繊細さ。 ボードレールのような都会や群衆を歌った詩。「氷島」の激しい文語調による漂泊者の悲痛な詩。小説「猫町」のような幻想とユーモア。 ニーチェを連想させるアフォリズム。徹底した二元論に捕らわれた(あるいは引き裂かれた)詩論や文明論。音楽や写真、映画など当時のモダンな趣味に関するエッセイ、などなど。
 だから朔太郎論のテーマは、論者の好みによって、口語自由詩時代の詩語やイメージだけを重視したものや「氷島」と日本近代についてだけ論じたものとに分かれる傾向がある。 (勿論、生涯を通じてその作品を論じたすばらしい論文もある)
 また朔太郎作品の楽しみ方としても、人それぞれ好みのイメージをその作品の中に見付けるといいだろうと思う。 また朔太郎の限界やダメな部分でさえ、むしろそれ故に愛さずにはおれないものを感じるだろう。 愚直なまでに、真摯に詩という表現に、文学だけに人生を捧げた人だったのだから。

 私は、ここでは「故郷」をキーワードとして朔太郎の精神的遍歴を述べた。それによって、それら作風の違う作品群を時間軸によって繋げたかったのだ。 それは、朔太郎の生きた時代を考えることでもあり、当然それに繋がる私たちの生きる時代、今を考えることにもなった。
 朔太郎の認識した漂泊者とは、故郷喪失者として近代を生きる日本人のことであった。 ペリー・ショック以降、幕末を経て、明治政府による近代化政策によって、日本人の自我は今日に至るまで引き裂かれたままである。 だが、近代以前の古き良き日本に帰ることは出来ない。それこそ現在から都合よく逆算した幻想でしかない。 いつの時代もその時代の苦しみがあり、閉塞感があり、社会システムの疲弊を克服しようとして変革して来たのであって、過去を美化しても仕方がないのだ。
 そして現在の私たちには、むしろ人間そのものがどこから来て、どこへ行くのかを問う存在であり、 文学者の創作活動は、まずこの世界の無根拠性(虚無)から立ち上げていかなければならない。さらに問題は、人間社会に於ける個人の在り方から、 地球上の生物界に於けるヒトの在り方としてパラレルに拡がっているのだ。


 [参考文献]
『萩原朔太郎全集』全15巻 筑摩書房
『伝記 萩原朔太郎』(上)(下) 嶋岡晨・著 1980年 春秋社
『若き日の萩原朔太郎』 萩原隆・著 1979年 筑摩書房
『父・萩原朔太郎』萩原葉子・著 中公文庫 1979年 中央公論社
『萩原朔太郎』三好達治・著 筑摩叢書 1963年 筑摩書房
『光太郎と朔太郎』 岡庭昇・著 講談社現代新書 1980年 講談社
『萩原朔太郎』 大野純・著 講談社現代新書 1976年 講談社
ムック『現代詩読本(8)萩原朔太郎』 1979年 思潮社
雑誌『ユリイカ 詩と批評』特集:萩原朔太郎―欧化と回帰 1980年7月号 青土社

萩原朔太郎論『家郷幻想』 終わり [ねこギターへ戻る]