信仰とは永遠のもの

信仰とは、どのようなお道でありましょうか。
 まず、身体に何かの苦難・病難・法難・災難などの苦しみが生じると同時に、わらをもすがる心が生じてきます。このとき医者に診てもらっても、それでも何かにすがろうとするとき、神仏を心に呼び神仏にすがる心が通じると共に、「信心」「信仰」が始まります。疑い深く、計らい多く、神仏の御利益や不思議を頂きたく、神社・仏寺へお参りする多くの人々がいます。真実今の世で、神仏の救いは我々に「幸福」を与えてくださいます。神仏は一切衆生を観ておられるので、真剣で素直な心の祈りとおすがりをすれば、立ち所に目の当たりに仏智の不思議と奇跡を与えてくださるのです。
 しかし、俗世の凡夫である人智であるが故、神仏への祈りも一時的な苦しいときの神頼みでしか「信仰」できない人々が一般的なのです。しかしそれが現実である以上、神仏に対する疑い計らいから「おすがりすれど御利益なし」とする人々の多いのも事実でありましょう。信仰とは、息の長いもの、永遠のものです。信仰は、神仏を心に頂くことなしには成り立ちません。神仏を離れた信仰など存在しないのです。
 

不思議を体験させる天照宗家

 天照宗家の信仰は、神仏の「不思議と奇跡」を目の当たりに授け示すことにあります。神仏の存在を「体験」させるところに、信仰への道が開かれているのです。信仰とは、生きた体験と事実に基づくところから神仏を心に頂き、神仏をありがたく心に目覚めさせ、神仏界の大いなる帰依と自覚となし、日々生かし生かされている喜びと感謝の心(報恩)を忘れないお道でありましょう。信仰するとは、神仏の存在を心に頂くことなのです。信仰とは、神仏への帰依と喜びの中に通る人生への感謝の生活なのです。
 この世には、「信心信仰」を唱える「宗教」という存在があります。そもそも「宗教」とは、その人その人の信仰の在り方によっては「毒」にもなれば「薬」にもなる、本当に奇妙に存在するものなのです。一歩間違えば「病苦」を誘発するなど、信仰宗教の特徴に応じてとんでもないことになる場合もいっぱいあります。
 このように宗教とは、その在り方によっては危険な一面を持っています。それは、神仏を離れた信仰や信心が原因になっていたり、いたずらな精神的信心・信仰や行き過ぎた肉体的修業・修行が基になっていたりする場合に起こる現象です。正しい観念と思念がもたらす信心信仰は、心の信念を植えつけます。そこには信じる神仏がしっかりと心の中に存在する素朴な信仰であり、盲目的な信仰ではないのです。

幸福を得る天照王道

 人々(同行者)を導く士が、神仏を心に頂かずに自分の思念で衆生済度(人々を救済すること)を行ったとしたら、大変な結果をもたらします。信仰は、神仏を心に頂くことがいかに大切であるかがよく分かります。そこには「神仏の導き」があってこそ、真実の生きた信仰と生活が今日を明日を豊かにしてくれるのです。「神仏の導き」これが真実の「信仰」なのです。
 天照宗家はこの神仏の導きを、神仏による教導教化の中に信仰の意義があり、神仏の直接的な導きの信仰生活が同行参拝者一人一人の幸福を得る道として、このお道を「天照王道」と呼んでいます。
 天照王道は神の道、仏の道、人の道です。神の威光と神の神性を持つ人間生命は、元来、魂の中に素晴らしい生命を宿しており、「神通力」を持っています。また、だれの魂にも「仏心」が宿っており、仏性は善と悪を認識する力を備えているのです。
 私たちが住む人間世界では、個々の「人」として「心と肉体」が存在します。人間はこの世に生まれると同時に「苦難」の人生が始まり、人間の完成された生命を目指して、人生の行が「生活」として一生を通じて展開されるのです。この人間が一生を過ごすとき、天照王道の信仰が私たちの人生に大いなる神の慈悲、仏の救世による救済の大道となるでしょう。
 今のこの時節、二十世紀末の「不安」時代に病み苦しむ一切の生命ある衆生を救うために、十三仏は村上秀樹をとおして天照王道を持ち出されたのです。この大道は素朴な信仰であり、難しい教義論は全くなく、ただ導きの神仏に「頼む一念」でおすがりする生きた信仰です。

三つ子の心になりおすがりする

 天照王道の真髄は、お参りを重ね功徳を積めばその功徳は、偉大な大道の完成へと導いてくれることです。人間の智恵の中に仏性開眼し、人格形成へと向かい、知らず知らずのうちに仏の悟りへ向かうお道なのです。功徳というのはお祓いであったり、先祖供養・因縁仏や無縁仏の供養であったりとさまざまですが、このようにお参りによる善行の徳を積むことを「功徳を積む」といいます。凡夫人間、何も分からないところですが、天照宗家の天照不動十三仏はお参り同行者お一人お一人に、絶えず光明を授けながら導いておられるのです。
 功徳を積むときは、ただ邪心のない三つ子の心になって、「どうにでもこうにでも助けてください」とおすがりするだけなのです。そのとき、神仏はすがる衆生一人一人の特長応分により、お慈悲を垂れては「光」を放ち、目の当たりに仏智不思議の驚きと御利益を与え、天照王道の信仰へと開眼させては教導されていくのです。

天照王道の人生観と神仏

 同行参拝者各々の家庭で、みんなが「健康」であり明朗であり、仲良く「和合」でき、豊かにして「富」があり、調和と融和の中に人生が楽しく安らかであること、これが天照王道の人生観です。そこには自ら神仏への感謝、先祖供養、先祖御霊への感謝があります。それが誠の報恩感謝になる人生があり、さらにあらゆる人々に対し感謝の一念を持つ生活態度は、神仏の願いにかなう信仰の真理なのです。
 口で言うのはたやすいし耳で聞くのも分かりますが、実生活の中で実行できないのが凡夫人間でありましょう。天照王道は、これを可能にする十三仏の加護と導きがあるため、天照宗家の存在意義があるのです。
 天照宗家は、どんな神仏がおられる所でしょうか。この宗家の御本尊は「大日大聖尊」と申し、この大宇宙の生命本体の「神」であり、「人格」で表現する御名です。私たちの住む「この世」の宇宙と死後の「あの世」の宇宙、「過去」「現在」「未来」の三世を貫く神秘的大宇宙の中心に、「大いなる太陽の生命」が存在するのです。この大いなる太陽の生命を「大日」と呼び、人格的に「大日大聖尊」と呼ぶのです。
 真言密教では大日如来をこの神の応現身とされ、「仏」として世に人格化されています。
 天照宗家は、大日大聖尊を根本大慈悲の大神としてあがめ、この神の直々のお導きを受けているのです。不動明王・観世音菩薩・阿弥陀如来・大日如来・文殊菩薩などなど、十三体の仏様を「十三仏」と呼びます。
 これらの御仏とさらに七福神、三宝大荒神・八法大荒神などの諸神・諸仏やあらゆる聖霊聖人は、すべてこの大日大聖尊より出られた光の大慈悲尊なのです。これらの神仏を総称して、「天照大日大聖大慈悲尊」と申します。略して「天照大慈悲尊」と呼びます。
 天照宗家の諸神諸仏は、あまねく一切生命ある衆生を救済するために天照王道を世に持ち出され、「天照大慈悲尊」となり多くの衆生の前に「不思議と奇跡」の光を与えられ、天照王道の信仰へと導いでくださる「光の大慈悲尊」なのです。

仏縁と人生の悟り

 今からおよそ2500年前、釈迦仏釈尊がこの世におられたとき、釈尊は苦修難行の末、菩提樹の下で人間の崇高な悟りすなわち「仏の悟り」を開かれました。仏門「八万四千の法門」を解脱し、あらゆる一切の人生の苦しみから解放されたのです。そのとき釈尊は、自由自在なる心(仏心)にあり、英智に優れ、仏力(法力)を体得され、すべての世を観る「観万力」を持たれる生きた仏の本体となり、成道されたのです。
 「悟り」とは、どのようなものをいうのでしょう。現代の世において、人々は「仏の大覚」を持つにいたる信仰のさまざまな在り方にとまどい、あるときは振り回され、何の意味もない形だけの「悟り」を持っては人生一生を過ごしているのが現実です。天照王道は、「仏の悟り」を日常生活の全般の至る所で「神仏」の導きと教えの直接的な「諭し」「悟らせ」をもって、まず「仏の大覚」へと向かわせながら仏性を開かせるのです。それが「仏縁」の始まりであり、信仰の始まりなのです。仏性とは、人間生命が持つ「正・邪」「善・悪」をはっきりと心に認識する理の本性をいいます。これがこの世にあって、この身この体、この心で仏になる基なのです。
 仏性開眼は、信仰がさらに深く天照王道の深奥へと向かうとき、この世の「人生のすべて」に悟りが進むのです。「人生は苦である」と釈尊は定義され、人生の苦からいかにして自ら自由自在に身を置くかに修行の悟りを求められたのです。
 人生の苦を解脱し「仏」となるための悟りとは如何なものであろうか。

逃れられない生・老・病・死・

 「仏の悟り」とは、正にこの人間が持つ人生の苦からの解脱にあるのです。人間には、「生・病・老・死」というだれもが持つ宿命が存在します。
 「生」とは人生を生きることで生きる苦しみがあり、「病」とはその人生を過ごすとき病気にかかったり身体を痛めたりする苦しみのことで、「老」とは年老いて老けてゆく哀れな宿命のことです。最後に「死」という死ぬ苦しみがあり、この「四難四苦」は、人間の運命と宿命なのです。この四難四苦を解決し抜け出すことを、「解脱」するといいます。
 釈尊の時代は「八万四千の法門」を悟り解脱すれば、すべての「苦」は大悟者の生命から消滅し「大自在」の境地、すなわちこの身この体で生きたまま成仏できたのです。このことを「即身成仏」といい、生きながらにして仏になるという意味なのです。釈尊の時代より2500年を経た今の世では、即身成仏を遂げるのに「九万一千の法門」を解脱しなければ、真実の仏になれない時代になっています。
 悟りの時代は時を経て永遠に続いていますが、今の時代では人間生命の大覚と完成に、九万一千の法門解脱を必要とするのです。この法門を「仏法」といいます。この仏法が天照王道の真髄であり、仏性を開かせて大覚へ向かう扉なのです。
 「生・病・老・死」の命題を解決するすべての人々のための信仰、これが真実にして王道でありましょう。天照王道とは、神・仏の法を体現化し体得するお道なのです。

信仰のスタイルは自由自在

 天照宗家の神仏が真実であり、慈悲と加護の天照王道の信仰を末長く持ち届けられるかどうかについては、神仏の奇跡と不思議な救済の事実と慈悲と加護により示されることでしょう。また、「天照大慈悲尊の神仏による導き」が永遠であるという真実にも気付くでありましょう。
 すがり来る多くの参拝同行者の信仰は、自由自在です。あなたが南無阿弥陀仏が好きで唱えるのなら、南無阿弥陀仏を唱えなさい。あなたが南無妙法蓮華経が好きならそれを、あなたが南無大師偏照金剛が好きなら南無大師偏照金剛を、アーメンが好きならアーメンを、神のノリトが好きなら神のノリトを、なにがしかの宗教教団の祈りの言葉が好きなら、それを唱えなさい。要はあなたが唱える称名が何であれ、神仏に対する崇拝は、すがるあなたの胸中三寸であり、真剣な祈りと心は神仏に通じるのです。
 天照宗家の御本尊、大日大聖尊の御名を呼ぶとき、あらゆる神の威光と慈悲をもって、目の当たりに授け示す奇跡と不思議に驚かされるのです。

頼む一念でおすがりする

 天照王道は、「仏の身体」を得る、「仏の心」を得る、「神の力」を得るお道であり、仏体・仏心・神通力という三つの和合した生命を、人格・性格・智格の調和和合へと完成成就させることにあるのです。しかし王道は、真実にして 「理想の人間」の生命誕生のために、あまねく世を照らす天の光であり、大宇宙の神・大日大聖尊の真理の教えなのです。
 人間の幸福と安楽のために、神仏は天上はるかなる大宇宙から光を放たれており、この光は神の五光であり、すがり来る衆生を救済される偉大な光なのです。
 信仰という天照王道のお道は、神仏を心に頂く御縁の始まりより、宗家へのお参りを重ねる功徳の積み重ねに、よりよい人生の今日があり未来が明るく照らされます。その心得は、「頼む一念、天照真語正」という祈りの言葉です。
 「真語正」というのは天照大慈悲の神仏より、「この身、この心に神仏が真理の言葉を衆生に語る(説法)生きた魂を正しく授かる」という意味なのです。救いを神仏に求め、苦難の中にある自分が自らの人生の過去に「けがれ・罪」を深く反省するところに、神仏は大いなる慈悲をもたらしてくださるのです。
 どんなけがれや大罪にあっても、どんなに極悪非道・非人間であっても、これこそが神仏の救いの「正客」なのです。また善人であろうと悪人であろうと、神仏は何の分け隔ても差別もなく救済されるのです。

神の光はだれの頭上にも

 この世の「大日」は太陽です。この太陽はだれの頭上にも光を与え、だれでも平等にその温浴を受けているのです。この世の生命ある衆生はすべて神仏の子であり、人間・動物・草木・物体・物資、そして自然界の水・風・火・大地など、あらゆる生命は大宇宙本体の根本、大慈悲大神・大日大聖尊の授けたまう尊い存在なのです。
 天照宗家は、だれの頭上にも慈悲の光が放たれています。「頼む一念、天照真語正」の心は、ただ神仏にすべてを任せ寄りすがる心だけあれば、願いは通じるのです。そこには「疑い計らい」はなく、人間性を悟り日常の人生に反省の念と悪心を知り、善い心と思念を持ち、正しきものとよこしまなものを心に悟る心がけと心得が必要なのです。
 拝む心に何の邪心もない称名念仏は、「仏心」です。神仏を疑い怒る心のとき、人は鬼になっているのです。この邪心と鬼の心のとき、神仏にすがる心は存在しません。神仏のお慈悲を振り切って逃げ立ち去る人々がいますが、救われる者も救われず、助かる者も助かることができないのです。
 すがる姿勢がどんな心に基づくものであるかによって、「救済の慈悲と導き」は、人それぞれにそれ相応の神仏の救いの技となって現れます。「すがる心と姿勢」が、神仏の救いと光の慈悲を受けるために、最も大切なことなのです。
 神仏の光は、愛に満ちた深い慈しみの光です。この世に、愛に満ちた光が天からあまねく照らされるとき、この地上世界は慈しみの世界に変わるでしょう。この愛の光は、天照宗家に大いなる日がくるときこの世界に一大光明となり、日本の端々より世界の隅々まで「愛と慈悲」がお実りとなり、新世紀の始まりを告げるでしょう。
 天照宗家・天照王道が目指す新世界の建設、それは、この地上世界の人類と生命ある一切のものが、大自然界とすべて調和・融合する世界であり、人類の崇高な願いである理想世界の顕現であります。そのような、世界密厳浄土の大建設を目指すのです。
 宗家は、人類の理想郷を神仏の大命の中に観ています。村上秀樹は修行の中で、理想世界の行願が昭和五十一年から昭和五十三年の間に続けられたとき、大いなる神の眼力により目の当たりに神から観せていただいたのです。
 この地上世界から戦争と殺りく・闘争と破壊の歴史を終わらせ、世界平和・安楽国となし、社会悪を根絶し、安らかに住める世界がこの世に誕生するために、天の大命による鳴動がこれから始まろうとしています。

未来にはばたく天照宗家

 神仏の手によって導かれるこの世が、21世紀を迎えようとしていた時代に、天照宗家は世に持ち出されたのです。ついに新世紀は大光明のときとなるでしょう。ここ数年、これよりこの地上世界では「悪」なるすべてが「大浄化」されるための、神仏の御経綸(計画)が始まったのです。
 世界の平和と安楽のために、神仏は人間一人一人を「仏心」化せしめ、世のすべてを善なる社会に作り変えるために、この世の大浄化を始められています。昭和63年1月5日の就寝中、村上秀樹の眼前に大いなる太陽が現れたのです。この日より天は、この病み傷ついた地上世界を「大浄化」することを告げられ、「心に命ぜよ」と神々に告げられたのです。
 私たちの村が、町が、都市が、国が、そして世界が、「悪」なるものが滅び「善」なるもので満ち、豊かにして安らかに暮らすことができる世界になるときがくるでしょう。
 天照王道の信仰は、この理想世界の顕現という最大目標があるのです。虚言でもたわ言でもなく、神仏の言葉の中に天照宗家は導かれている事実があります。今でこそ宗家は微々たる存在でしかありませんが、数年後にはどうなるか。神仏の加護と導きが着々と実行に移されていくとき、多くの参拝同行者はもとより、霊験と奇跡と不思議の天照宗家は大きく未来に羽ばたく一里塚を歩いていることでしょう。
 「頼む一念、天照真語正」を心の錦旗として、この三千世界一切衆生を救わんがために、疑い計らい深い衆生のせっぱ詰まった願いを立ち所に聞き届け、神の威光と仏の奇跡と不思議を授け示すでありましょう。あるときは慈悲をもって、あるときは驚かす天照大慈悲尊の神仏、大いなる天照王道に幸あれ、光あれ。.


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信仰と天照王道

管導士・村上秀樹