インタビュー/対談/エッセイから



●1927(昭和2)年9月24日東京に生まれる。

(本名、鈴木しゅう治[しゅうは上が秋、下の部首が手]は、)坊主がつけたって言ってました。秋だったから、生まれたのが。【@T】

生まれたのは羽田に近いんだけど、すぐ蒲田に引っ越してきて。京浜工業地帯ですね。(略)高砂香水工場って、香水を作る工場があってね。そのそばにカフェーがあったんだけど、子どもながらそういうところに行ってて。【A】

親父はブリキ職人で、腕は良かったがお金が入ると飲んだり休んだり、昔気質の人でした。/親父は、滅多に口をきかない静かな男で、「勉強しろ」ぐらいは言われた記憶はありますが、いまの「勉強しろ」とは意味が違いますからね。あとは、子どもが何をしようと黙っている。そこにいるだけで存在感がありました。【C】


●少年時代

ぼくは、得意なのは絵と工作だけという、おとなしくて目立たない子どもでした。それでも、およそいまでいう、犯罪と名のつくものは子どものときにやりました。傷害罪、窃盗罪、わいせつ行為。傷害罪というのは、子ども同士のけんかで、ひっかり傷をつくったりした。(略)窃盗罪は、本屋さんでやった万引き。わいせつ行為は、お医者さんごっこ。こういう犯罪は子どものときにやるものです。悪いことを通過しないと卒業できない。【C】

ぼくは、小学校3年生ごろから、漫画家になりたかったんです。ぼくは万物すべて生命あるんじゃないかという認識を持っているんです。それも、かなり強く。だから、そういう発想のものがぼくの作品の中にも多いし、生き方ともいえると思う。その辺を歩いていても、ブロック塀も生きてるんじゃないかなという気持ちがある。ブロック塀の間から雑草なんかが生えたりしてると「すごいなぁ」と立ち止まって見ていたりする。歩いていて、ふと見ると、小さい虫が這っている。踏もうとした足を、あわてて持ち上げて、よろけそうになったり。自分でも異常じゃないかと思うくらいです。/雑草や虫だけじゃなく、本や新聞にしても、コップにしても生きてるんじゃないかと思うんです。【C】

小さい時から絵が好きだったけど、絵が好きな子どもって漫画家になりたいと思うじゃない。(略)「少年倶楽部」で育っているから、そういう気持ちがどっかにあったのね。【A】

「少年倶楽部」とか見て、杉浦茂さんなんか好きでしたね。頭に長靴のせてる「長靴三銃士」とか、けっこうシュールなのがあって。(略)それで、いわゆる理数系というのが全然だめだから、絵の方向へどんどん来ちゃったんでしょうね。【B】

(小さい時に描いていた絵のタイプは)「冒険ダン吉」とかですね。(コマ漫画を)画用紙で描いて綴じたり。一方では挿絵画家の樺島勝一とか鈴木御水とかにも憧れていましたね。伊藤幾久造とかね。【A】

陸軍少年飛行兵学校に行きたかった。だけど目方が足りなくて落ちちゃった。(略)あの頃の子どもはみんな軍国少年だから憧れたんだよね。四谷の駅からちょっと歩いた学校で試験があって、落ちちゃったから帰りに死のうかなと思った。十四、五才の頃。それ以降行っていないの、そのホームには。【A】

ま、それで今こうして助かってるわけだけど。非常に劣等感を覚えてね。それからしばらくして空襲が激しくなって、その時志願して受かった人たちは、結果としてみんな死んでしまったんだけどね。僕はわりあい悪運が強いというか。【B】


●蒲田工業学校時代 14歳〜17歳 1942(昭和17)年〜1945(昭和20)年頃

喧嘩は強くないですよ。ただ、ボクシングはすごかったんですよ、これでも。五戦三勝三KOっていう。四回線ボーイになろうかと思ったけどやめちゃった。・・・十六、七ですね。敗戦ちょっと前。【@T】

(空襲の時には、東京蒲田に)ずうっといました。すごい空襲があって(※1)、それで横浜へ引っ越したんだけど、またそこで大空襲があって。それで、いわゆる敗戦になって、その年の秋には軍隊にとられることになってたの、体重が足りなくても。一応飛行訓練はするが、離陸だけだって言うわけ。帰ってこなくていいって、おどされたりして。そこもまた運がいいでしょ。【B】


(※1)「子どものころに戦争があった―児童文学作家と画家の戦争体験」(1974年 あかね書房刊)収録の長新太のコマ漫画「火の海」は、東京蒲田での1945年4月15日夜から16日朝にかけての大空襲の体験を作品にしたもの。兄弟で夜通し逃げ惑い、明け方両親と再会するまでを描く。


●映画館の看板描き時代 18歳〜20歳 1946(昭和21)年〜1948(昭和23)年頃

終戦の時は、もう十八歳くらい。蒲田が戦災にあったから、横浜に移ってた。横浜でまた焼けちゃったんだけど。親戚がいっぱいいたんで、戦後は横浜にずっといた。【A】

その頃映画館の看板屋さんで働いてたの。映画館に勤めている従兄がいて、絵が好きなら看板を描いたら、映画館にただで入れるよって言うからそれはいいなと思って。でも色で描くまでは出来なくて。難しいんです。【A】

看板はものすごくでかくて。映画のスチールに碁盤目の入っているセルロイドをひっつけて、それに沿って拡大するのを三年くらいやらされた。それが勉強になったんじゃないかな。下描きだけどかなりリアルに描かなきゃいけないわけ。まあデッサンですね。【A】

僕が(鉛筆で)デッサンすると、職人が、だーっと色つけて。映画が週替わりで二本立てとか三本立てだから、もうめちゃくちゃ忙しくて。映画はたくさん観ましたけどね。【B】

洋画は『美女と野獣』とか『地の果てを行く』。【A】

小僧さんは、巨大な看板を映画館に運んだりする。それがもう大変な仕事。当時は映画がしょっちゅう替わってたから。(略)三年くらいやったんだけど、僕は体力がないから重労働が嫌で。徒弟制度みたいな感じになっちゃうし、だんだん嫌気がさしてきて、辞めちゃったんです。【A】


●東京日日新聞社時代 21歳〜28歳 1949(昭和24)年〜1955(昭和30)年頃

(看板描きを)やめようかなと思っている頃に、毎日新聞で東京日日新聞という夕刊をつくるので、連載漫画に新人を募集してたんです。なんとなく応募したら、トップの二人のうちの一人になっちゃって。もう一人の方はわりあいご年配の方で、それよりは若いやつをってことで僕が受かったんですね(※2)。それが漫画に入った一番のきっかけ。【B】

たまたま目について、なんとなく応募したんでしょうね、きっと。漫画募集してるから描けば、なんて誰も言わなかったし、投稿漫画もしてなかったし。そんなに熱心に描いてなかったんですよ。ただ好きだから、やっぱりやってみようと、思ったんじゃないかな。でも、憧れはありましたよ。当時の横山隆一さんとかいろんな方に対してね。だから漫画家になりたいっていう憧れはあった。【B】

まだ横浜にいて、初めて自分の漫画の載った新聞(※3)を駅に買いに行くじゃない。ぱっと見たら「長新太」と書いてある。あれって思って。人に断りなしに勝手に名前を付けられちゃった。そのコンクールで入った作品が、当時流行ってたロングスカートをテーマにしてたから、ロングで長い、新人で新、太くたくましく生きなさいと言うんでデスクの偉い人(※4)が勝手につけちゃった。【A】

描いた漫画を持って何回か新聞社に通ううちに、偉い人が普段は何やってるのと聞くから、何もしてないと言うと、じゃうちへ勤めたらどうなのということになって、それもいいかなと思って新聞社に入っちゃったんです、嘱託みたいな形で。それで連載漫画(※5)を描きながらイラストレーションを描いていた。僕みたいなのがいると新聞社は便利なわけ。小さなカットを描かせたり。そのうちに自分でコラムか何か持つようになって。文章を書いて絵を描いたり誰かにインタビューしたり。【A】

新聞社では、大学にいるみたいに、いろんな勉強が一応できましたね。人との交流があって。井上靖さんや戸川幸夫さんが新聞記者でいたし、作家もたくさん来るから。永井荷風とか。(略)徳川無声さんの連載対談(※6)の絵を描いてて、一緒について行って、いろんな人に会ったり。同世代の新聞記者とか漫画家と友だちになったりして。井上洋介さんや寺村輝夫(※7)さんと初めて会ったのもその頃ですね。【B】

こんなある日、児童図書出版の人がやって来て『新聞ができるまで』という本をつくりたいと言った。坊主頭の学生服の青年で、名前は「寺村輝夫」。【@U】(※7)


(※2)東京日日新聞の新人漫画コンクールで応募作品「ロングスカート」が1等入選する。これをいろいろな略歴を調べると、1947年、48年、49年とまちまちの表記がされている。平凡社版「海のビー玉」(2001年刊)の略年譜には、1949年初笑い東京日日新聞漫画祭りで「ロング狂」2等という記載もあるので余計分からなくなる。4コマ漫画の連載は、1949年1月20日から始まるので、おそらく1948(昭和23)年受賞で間違いないと思うのだが。

(※3)東京日日新聞連載4コマ漫画は「ポン君カン君」(1949年1/20〜3/16)

(※4)「長新太」命名者は、毎日新聞のデスクK氏。永井荷風研究者小門勝二(本名小山勝二)氏のことと思われる。

(※5)1950(昭和25)年は、東京日日新聞で4コマ漫画「クリちゃん」(7/12〜10/1)を連載。

(※6)徳川夢声の対談「同行二人」(143回連載)の挿絵 を担当した。対談者は、呉清源(囲碁士)、片山哲(政治家)、ヒロセ元美(ストリッパー)、八木秀次(科学者)、藤原義江(声楽家)、高峰秀子(女優)、別當薫(野球選手)、安部能成(哲学者)、水ノ江滝子(女優)、楢橋渡(政治家)、古今亭志ん生(落語家)、尾上梅幸(歌舞伎役者)、大佛次郎(作家)の13名。(「別冊太陽」絵本の作家たちTの図版で高峰秀子の似顔絵を見ることが出来る)

(※7)長新太初めての単行本の仕事は、学習絵本「社会科 新聞ができるまで」文・竹田真夫(小峰書店刊)。この仕事を依頼したのが当時小峰書店の編集者をしていた寺村輝夫。その時の事を書いた寺村の文章を以下に引用する。

ぼくは、この世界のだれよりも早く、むかしから長新太を知っていることを誇りにしている。(略)遠く昭和二十三年ごろだと思う。(略)ぼくは学生のくせに小峰書店の編集者だった。そのころ小峰書店では小学生全集という百巻にもなったシリーズを出していた。(略)その一冊に「新聞ができるまで」というのがあって、画家はわが長新太である。日日新聞に連載していた四コマまんがの大ファンであったぼくは、新聞社にいるんだから新聞のしくみの絵をかくにはもってこい、という安易な理由で依頼にいった。このときも、ろくに会話がなかった。「かいてください」「はい」でおしまい。あとは「長ってへんな名前?」「ロングスカートの長ですよ」「フー」これで一冊の本ができあがった。
                      「飛ぶ教室/特集・長新太大研究」収録「長新太の<おしゃべり>」寺村輝夫より



【参考資料】

【@T】雑誌「飛ぶ教室」34号 1990年 特集 長新太大研究 (楡出版)・・・インタビュー「正体不明のフー・アー・ユー」長新太×宇野亜喜良、和田誠

【@U】上記の「飛ぶ教室」34号収録・・・長新太 エッセイ「青春時代」

【A】単行本「仕事場対談」 和田誠と27人のイラストレーター 2001年刊 (河出書房新社)・・・雑誌「イラストレーション」(玄光社)連載 第19回 和田誠×長新太 1999年4月

【B】ムック「別冊太陽」絵本の作家たちT 2002年発行 (平凡社)・・・長新太インタビュー(聞き手:小野明)

【C】雑誌「週刊現代」1983(昭和58)年4月9日号(講談社)・・・長新太インタビュー「子どもは親の良い所悪い所をすべてコピーしながら生きている。」(霊友会/広告のページ)



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